南青山アンティーク通りクリニック

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見えないもの(6編)

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第五十一話 エンディングの音楽

令和八年九月ニ十五日(金曜日)


 藤井さんの頭の中では、すでに対局は終わっていたのかもしれない。
 映画館では、エンディングの音楽が流れ始めると、席を立つ人がいる。
 彼もまた、最後の一場面を残して、すでに席を立っていたのかもしれない。ところが、映画は終わっていなかった。
 あと二、三秒、席を立たずにスクリーンを眺めていたら、瞬時に読み切れていたと思う。

 藤井さんが数秒で意図も簡単に読み切れる局面。
もし彼が読めないのであれば、AI以外に読み切る人はほぼ皆無。それくらい絶対的な勝ちを確信できる局面であり、彼は自らの思考を停止させたのではないかと思う。
 眼を離した一瞬。
 安全第一に指したはずのその一手が、皮肉にも大逆転を招く悪手になるとは、彼自身も想像していなかった。

 その結果、あり得ないことが起きた。
 AIだけが、一秒にも満たない瞬間に、大逆転を告げた。
画面には、AIの%が大きく振れた。
 解説者は、「AIの%は見たらだめですよ」と、もう一人の若手の解説者に対して、笑いながらお説教を始めた。解説者には、まだ何が起きたのかわからない。一人が気づき、もう一人が気づく。数分遅れて、人間の時間がAIに追いつき始めた。
 彼は天国から地獄に落とされた。
 ところが、広瀬さんも絶好のチャンスを見落とす。
 そして、再び藤井さんに勝ちの眼が出てきた。しかし、詰みを逃してしまう。
 再び、広瀬さんは勝勢。

 それから優劣は、風見鶏のように反転、また反転。
 数時間後に勝敗が決まった。見ている視聴者でさえも、脳疲労をこれほどまでに強烈に感じさせられる日はそうはない。
 二人の対局者は、想像を絶する精神的な疲労で大変だったであろう。
 数時間前まで、彼は勝利を確信していた。
ところが終局直前、その表情には、敗北を悟った者の深い失意が浮かんでいた。あれほど落ち込んだ彼の姿を、私は初めて見た。

 彼も、人の子であると思った。
 いやそうではない。彼は、人間の殻から、ようやく脱皮した。
 近い将来、鉄壁の読みが再構築され、数段凄みを増した彼が戻ってくるであろう。そのとき、彼を追いかけようとする者さえ、いなくなっているかもしれない。

 夜九時前後だったように思う。
 静かな佇まいをして、決して表情を表に出さない藤井さんの視線が、動き始める。
 天井の一点を見つめ始めた。数十秒間後には、俯き盤面を眺める。そして、小さく微かな溜息をつく。
右わきの肘息に、身を委ね、数秒後には、もう一度盤面を眺める。不甲斐なさを悔いているのかもしれない。
しばらくすると、再び天井の一点を凝視した。いかに悔いているのがひしひしと伝わってくる。この一連の動作が、乱れながらも繰り返される。見ていられないのが私。小生もアマチュアながら、同様の経験は何度もしているので、痛いほど彼の気持ちはわかる。今晩は一睡もできないのではないかと危惧する。
藤井さんが自玉の詰みを見つけた。自力で逆転は難しい。この状況を広瀬さんが見逃すわけはない。
彼はその確信を持ったのであろう。
 彼は、覚悟を決め、首を差し出す。心の準備をしているのでは?
 絶対的な勝利を確信するほどの局面を見落としたことへの自戒の念にかられているように見えた。

 解説者は的を得た言葉を口にする。
「私たちが動揺したら、視聴者の皆さんにも影響が出ます。私たちは、黙って静観しましょう。
 私たちプロ棋士であっても、勝敗はどちらに転ぶかわかりません」

 数分経過した。
「藤井さんとほぼ同じレベルの広瀬さんが、これを逃すとは思えないです。
雌雄は今度こそ決しました。
静かに最後を見守りましょう」

 藤井さんが「負けました」と一礼した。
 午後九時を大きく過ぎていた。

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