

とても小さな出来事であっても、題材として扱い、文章にするようになって久しい。
そのおかげで、書く手が止まることは、ほとんどなくなった。今は、大きな出来事を一切必要としない。
週に六日、何十人ものクライアントの話を聞いている。それで十分すぎると感じる。
そのなかにさまざまな視点が飛びかっている。話の内容そのものがほしいのではない。
人がふと見せる微細な動きや、物の見方が一瞬ずれる瞬間に、私が気づけるかどうかである。大抵、そこに面白い題材が転がっている。
そして最近は、病態説明の際に、少なくとも一呼吸は置くようにした。
そこで生じた隙間に、思いのたけを話し始める人が増えてきた。もし私が矢継ぎ早に話せば、その隙間は塞がり、言葉は現れない。
あえてその隙間を埋めず、自然に待つ。
ただし、それを受け止めるには、診療のペースを幾分落とさなければならない。そこにも題材の原型が見えることがある。
キーボードを軽く叩き、マウスを操作する時間が、ほんの少しだけあれば十分である。まったくの未体験を書くのであれば、生みの地獄を味わうかもしれないが、日常に見つけた原型なら、自在に姿を変えてフィクション化すればいい。
炎天下に大粒の汗をかきながら歩く大変さと、エアコンが効いた部屋で心地良く涼み、体力を温存できるかどうかの違いである。
学術論文を書くときは推敲という概念をあまり持っていなかった。
得られた事実を列挙するだけなので、せいぜい一、二回の推敲で十分であった。
今は、何度も推敲するようにしている。なぜなら、推敲そのものが、物を書くための有意義な訓練になることを肌で感じたからである。
推敲もまた、次の作品の原型になる。