南青山アンティーク通りクリニック

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第三十七話 獅子落とし

令和八年四月十五日(水曜日)


風が止まり、庭だけがゆっくり呼吸していた。
コトン。
庭のどこかで、時間が落ちていた。

風情

北陸方面に旅行に出かけた。
ある旅館に宿泊。
そこには、日本の風情がある庭園がある。

聞きなれない音

辺りはシーンと静まり返っている。

と思えば、聞きなれない音が聞こえる。
耳を澄ませば、コトンという音が一定の間隔で落ちている。



南青山アンティーク通りクリニック院長のブログ獅子落とし画像

音を頼りに辺りを見渡すと、獅子落としがあることに気づく。

 水が満ちていく気配だけが、庭の空気をゆっくり押し広げている。
 この世の静けさが、ひとつの点に集まっていくような時間。

静寂さを醸し出す雰囲気

 ここでは、声を潜めることが自然なようだった。
 空気そのものが、静けさを守ろうとしている。

 その静けさの奥に、別の緊張が潜んでいる気がした。
 仲居さんによれば、先日、藤井さんのタイトル戦がこの旅館であったと言う。

南青山アンティーク通りクリニック院長のブログイメージ藤井さんのタイトル戦

 仲居さんは続けた。
「あの方は物静かな雰囲気を持っています。対局が始まると、眼では感じられないのですが、画像にも映らない緊張感が漂います」 「すぐにわかるものですか」と尋ねると、
「ええ。言葉では説明できませんが、どこか違う空気をまとっているので、この人は普通の方ではないとすぐにわかります」と笑った。
 藤井さんの対局には、静けさの奥に、張りつめた糸のような気配があると聞く。言葉では説明できないが、ただそこにいるだけで、空気がわずかに変わるのだと。
 彼の静かな横顔の奥にも、あの一秒の熱狂があるのだろうか?

回想

 獅子落としの音が、一定のリズムで鳴り続けている。
 その音を聞いた瞬間、胸の奥に昔の緊張がふっと蘇った。

 学生時代は賑やかでワイワイやっていたが、音のない世界に瞬時に入り込んでしまう経験を思い出す。

 学生時代、五秒将棋で脳を鍛えた。
 次の一手を、五秒以内で指さないといけない。
 瞬間的に次の一手を頭に思い浮かべることができるかどうか?
 その場限りの手では勝てない。
 数手先の局面を正確に描いた、一枚の風景画が見えるかどうかに尽きる。

 外界の雑音を消し、過集中の世界に浸る。
 激しい騒音の渦巻く街角であっても、その音さえも耳に入らない極度の緊張感。

 秒読みはトキを刻む。
 五、四、三、二、一と時間が徐々に消えていく。
 五のとき、脳の急激な加速が始まり、超高速回転へ。
 四のとき、選択肢は二つ、三つ脳の中に自然に浮かぶが、どれが正解かを読み切る。
ひとつひとつ検討し、どれを最終選択すべきかが見え始め、利き腕が、将棋の駒を握ろうとする。
 三のとき、念のため、確認作業を一秒間で行う。
考え直し、駒を持ち直すこともある。指先がジーンと熱くなる。
 二のとき、後戻りできない最終結論を出す。背中に汗が一筋だけ流れる。
 一のとき、覚悟を決めて指す。そのとき、鼓動が、秒針と同じ速さになる。

南青山アンティーク通りクリニック院長のブログイメージ5秒タイマー

 数時間、五秒将棋で頭を鍛えるとその疲労は尋常ではない。
五秒の沈黙は、永遠より長く感じることがある。

疲弊

 学生会館を後にする頃は疲労困憊。
 周囲の音が、耳に入らない。
 五感を使う余裕はない。

 プロ棋士が消費するグルコースは半端ではない。
 とりわけ、甘味の皿だけが、次々と空になっていった。
 タイトル戦で、一日五食しっかり食べても全然太らない。

我に返る

静寂を破るように、竹がひとつだけ小さく跳ねた。
 庭の影がふっと揺れ、乾いた音がひとつ落ちた。

 その音で、回想を脱して我に返る。
 音が落ち、庭が深く息をついた。目の前の光景が、少し遅れて輪郭を取り戻す。

南青山アンティーク通りクリニック院長のブログ庭のイメージ5秒タイマー

 その音が完全に消えたあと、庭はさらに深い静けさへと沈んでいった。
 しばらくすると、獅子落としの音が聞こえてくる。
 コトンという音は、注意深く聞けば、絶え間なく聞こえる。

 都会の雑踏では決して聞けない、この落ちる音に出会えただけでも、
旅の意味は十分だった。

 コトン。
 音がひとつ落ちた。
 その小さな音が、庭の静けさをさらに深くしていった。



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