

第一話 幻月
第二話 さらなる<偶然性>と見えていなかった<必然性>
第三話 ちょっぴり早い、クリスマスイブ ―深紅のバラ―
第四話 雪化粧
第五話 お帰りやす
第六話 生演奏
第七話 You Can Do Magic
第八話 Last Train
第九話 美しく流れるメロディライン
第十話 結婚するって本当ですか?
第十一話 Antonym『アントニム』
第十二話 魑魅魍魎
第十三話 俯瞰
第十四話 陶酔
第十五話 ダブル・・・
第十六話 Survive(生き抜く)
第十七話 絶体絶命
第十八話 Out Of Control & Take My Breath Awa
第十九話 I Cannot Die
第二十話 乱高下
第二十一話 STORIES
第二十二話 Brain Jack
第二十三話 人間らしさ…Into the Conflict
第二十四話 影
第二十五話 Lock On
第二十六話 黒子という名の主役
第二十七話 Stay Cool SpecialのBackyard
第二十八話 再び蘇る
第二十九話 風鈴
第三十話 喪失が教えてくれるもの
第三十一話 Don't Miss It
第三十二話 MERRY CHRISTMAS
第三十三話 年賀状じまい
第三十四話 余白
第三十五話 SAKURA
第三十六話 布石
第三十七話 獅子落とし
風が止まり、庭だけがゆっくり呼吸していた。
コトン。
庭のどこかで、時間が落ちていた。
北陸方面に旅行に出かけた。
ある旅館に宿泊。
そこには、日本の風情がある庭園がある。
辺りはシーンと静まり返っている。
と思えば、聞きなれない音が聞こえる。
耳を澄ませば、コトンという音が一定の間隔で落ちている。

音を頼りに辺りを見渡すと、獅子落としがあることに気づく。
水が満ちていく気配だけが、庭の空気をゆっくり押し広げている。
この世の静けさが、ひとつの点に集まっていくような時間。
ここでは、声を潜めることが自然なようだった。
空気そのものが、静けさを守ろうとしている。
その静けさの奥に、別の緊張が潜んでいる気がした。
仲居さんによれば、先日、藤井さんのタイトル戦がこの旅館であったと言う。

仲居さんは続けた。
「あの方は物静かな雰囲気を持っています。対局が始まると、眼では感じられないのですが、画像にも映らない緊張感が漂います」
「すぐにわかるものですか」と尋ねると、
「ええ。言葉では説明できませんが、どこか違う空気をまとっているので、この人は普通の方ではないとすぐにわかります」と笑った。
藤井さんの対局には、静けさの奥に、張りつめた糸のような気配があると聞く。言葉では説明できないが、ただそこにいるだけで、空気がわずかに変わるのだと。
彼の静かな横顔の奥にも、あの一秒の熱狂があるのだろうか?
獅子落としの音が、一定のリズムで鳴り続けている。
その音を聞いた瞬間、胸の奥に昔の緊張がふっと蘇った。
学生時代は賑やかでワイワイやっていたが、音のない世界に瞬時に入り込んでしまう経験を思い出す。
学生時代、五秒将棋で脳を鍛えた。
次の一手を、五秒以内で指さないといけない。
瞬間的に次の一手を頭に思い浮かべることができるかどうか?
その場限りの手では勝てない。
数手先の局面を正確に描いた、一枚の風景画が見えるかどうかに尽きる。
外界の雑音を消し、過集中の世界に浸る。
激しい騒音の渦巻く街角であっても、その音さえも耳に入らない極度の緊張感。
秒読みはトキを刻む。
五、四、三、二、一と時間が徐々に消えていく。
五のとき、脳の急激な加速が始まり、超高速回転へ。
四のとき、選択肢は二つ、三つ脳の中に自然に浮かぶが、どれが正解かを読み切る。
ひとつひとつ検討し、どれを最終選択すべきかが見え始め、利き腕が、将棋の駒を握ろうとする。
三のとき、念のため、確認作業を一秒間で行う。
考え直し、駒を持ち直すこともある。指先がジーンと熱くなる。
二のとき、後戻りできない最終結論を出す。背中に汗が一筋だけ流れる。
一のとき、覚悟を決めて指す。そのとき、鼓動が、秒針と同じ速さになる。

数時間、五秒将棋で頭を鍛えるとその疲労は尋常ではない。
五秒の沈黙は、永遠より長く感じることがある。
学生会館を後にする頃は疲労困憊。
周囲の音が、耳に入らない。
五感を使う余裕はない。
プロ棋士が消費するグルコースは半端ではない。
とりわけ、甘味の皿だけが、次々と空になっていった。
タイトル戦で、一日五食しっかり食べても全然太らない。
静寂を破るように、竹がひとつだけ小さく跳ねた。
庭の影がふっと揺れ、乾いた音がひとつ落ちた。
その音で、回想を脱して我に返る。
音が落ち、庭が深く息をついた。目の前の光景が、少し遅れて輪郭を取り戻す。

その音が完全に消えたあと、庭はさらに深い静けさへと沈んでいった。
しばらくすると、獅子落としの音が聞こえてくる。
コトンという音は、注意深く聞けば、絶え間なく聞こえる。
都会の雑踏では決して聞けない、この落ちる音に出会えただけでも、
旅の意味は十分だった。
コトン。
音がひとつ落ちた。
その小さな音が、庭の静けさをさらに深くしていった。
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